↑のエントリに対してツッコミをいただいたので追記。
土俵の上で,つまり自然科学で自説を唱えるルールに従って現在バトルしているコントラバーシャルな説について,学会がジャッジしたりはしない,というのはもちろんそうなのですが、実際には土俵に乗っていないのに,一般向けには土俵上で戦っているかのようなことを言っているものについては,それはウソでこいつはルールに従っていないですよ,という指摘はしてもいいし,したほうがいい場合もあるのではないでしょうか.
いくつかポイントがあると思うので順番に。
まず、ルールに従ってない、という点に関しては、オイラはだからこそ森氏は「天然」なんだろうなー、と思ってしまうです。たとえば、有力な学会でも学会発表に審査がないのは珍しくなくって、当然「と」な発表も結構あったりする。学会側も心得たもので、そういうのは初日の朝一とかの、盛り上がってない時間に全部固めて、通称「キチガイセッション」とか呼ばれたりするわけだけど、まあ、そんな感じで「権威ある学会で学会発表した」ってハクをつけるのは、とっても簡単。論文だって一応査読があることにはなってるけど、実質なんでも掲載されちゃうような三流以下の雑誌ってのがあったりして、そういうところに投稿しちゃえば、形式的にはちゃんと論文をパブリッシュしたことになる。査読のない雑誌もあるし、素人目には名前だけは偉そうな「紀要」とかってのもある。
そうやって小細工すれば、ある程度「形式的」には学問のルールに従っているように見せることも、森氏はできたはず。でも、あんまりそういう小細工してないところを見ると、ナチュラルに「と」なんだろうな、と。
じゃあ、そういう小細工がされていた時に、専門家は「形式的」にそれを「と」だと判定できるのかというと、たぶんできない。ちゃんとした学者でも学会発表しかしていない研究ってのはある。小ネタなので、わざわざ論文書くほどのことでもない(雑誌論文を一本書くのは結構大変なのだ)とか、あとでちゃんと論文書くんだけど、とりあえず速報的に学会発表するとか、学生がやった小ネタ・レベルの研究なんだけど、コイツはオレ様の弟子ですよことを売り込んでやるために、第二筆者に自分の名前を入れてやるとか。
そんな感じでちゃんとした学者がやったちゃんとした研究でも、形式的には「と」と変わらない扱いのモノもある。大抵の場合、それは専門家からすると、「まあ、当然そういう結果が出るだろうね」とか、「へー、そんなことが起きるんだ?でも、それってなんか役に立つの?」とかって意味で、いまいち面白くない話で、それを当人も分かっているから、そういう扱いをするのだけど、それと「と」な学説がどう違うのかを専門的知識を前提としないで素人に分からせるのは難しい。昔、某学会で、ユンケルとかアリナミンとかそのへんで売ってる精力剤をラットに片っ端から飲ませて、どれが一番効くかマジメに調べてみた、という研究発表を聴いたことがあるんだが、それにはみんな喜んでいて、ゲーム脳には眉をひそめる理由って?(ちなみにユンケルはホントに一番よく効く、という結論だった記憶がある)
じゃあ、そういう表層的な形式ではなくて、実験手続きとかデータ処理の妥当性といった点ではどうか?森氏はここでもボロボロだけれど、実はちゃんとした研究でも本質的に何か違うところがあるわけじゃないのだ。専門家だったら、ああ、ここがおかしいとすぐ気がつくような、当たり前のミスを犯している点で、森氏のデータは信用できない。しかし、「新しい」ミスは専門家でも分からない。「オマエはあの論文でこういう結果が出たから自分の説が正しかったって言ってるけど、ちょっと実験手続き変えたら違う結果になっちゃったから、それって単なる実験手続きのミスだろ?」なんて論争は、ちゃんとした専門家の間でもフツーによくある話だ。まして院生レベルの実験だったりすると、ぼろぼろそういうツッコミどころが見つかったりする。手続きだけじゃなく、データ処理も間違ってたりする。しかし、それを「と」と呼んでしまったら、研究なんてできない。ベストを尽くしたが及ばなかっただけだ。
さらに深いところでの形式的な正しさ、現象の再現可能性だったり、厳密な意味での論理的な正しさという話になると、そういったレベルでもオレの研究は絶対に正しいなんて言う奴がいたら、その方が「と」だ、という話になる。たとえば現象の再現可能性。極論をすると、ちゃんとした手続きの実験を何度も繰り返して行って、同じ結果が出ることを確認したとしても、それが全部偶然で、次にその実験をやったら別の結果が出る、という可能性が絶対ないわけではない。これは本当に極論なわけだが、脳科学みたいに分かってることが非常に少ない分野だと、どんなにちゃんとした実験をやって、現象の信頼性には疑問がなかったとしても、その解釈にはある程度飛躍した部分が含まれてしまうのはしかたないところで、そういう解釈が可能である(間違ってるかもしれないが)ということを示すのも、立派に学者の仕事だったりするわけだ。推論のような高次の精神活動を要求する課題の遂行の際に前頭葉が活動しているので、前頭葉はそういった活動を担っているという仮説と、だから前頭葉を働かせないゲームばかりしていると高次の精神活動ができなくなるという仮説、前者が「と」じゃなくて、後者が「と」である理由を、論理だけで説明するのは、たぶんほとんど無理。ゲーム中に前頭葉が働かなくなったということが、まさしく高次の精神活動による学習の結果として、複雑な条件判断を少ない計算負荷でできるようなったということを示しているかもしれないとかって言っても、屁理屈にしか聞こえないだろうなー、とか。実際にそういう研究に関わっていたことがある人間からすると、「推論のような高次の精神活動を要求する課題」は、えてして黎明期のTVゲームそっくりだったりするんだけどな、とか思っちゃうんだけど。画面制御にゲーム用のライブラリ使ってたり、秋葉でアーケード用のジョイスティックとかボタンとか買って、実験装置作ったりしてたくらいw。
元記事にある「1+1=3」を否定するのと、「と」学説を否定するのとは、そうした点で決定的に違う。「1+1=3」を否定するのは実に簡単だ。だって「1+1は2ということにしましょう」という取り決めの上で、みんな議論してるんだから。「1+1=3」というルールがあってもいいかもしれないが、それはオレたちがいま議論しているモノとは違う、という意味で否定できる。ゲーム脳の理論を否定するのは、それとは違う。「経験的にありそうにない」という意味でしか否定できない。それはもうこの上もなくありえないのだけれど、学者として誠実であろうとすればするほど、一言「間違ってる」と言って済ますことはできない。
ま、そのへんはオイラがウダウダ言うより、クーンだ、ポパーだ、ラカトシュだといったヒトたちの書いたもんでも読んでもらった方がいいと思うわけだけど。
そういったファジイな基準でしか決められない「研究の価値」というのを、ある程度分かりやすく示してくれるのが、どのくらいの「格」の雑誌に論文が掲載されたかとか、その論文の引用件数が何件ぐらいだとか、そのへんを総合して評価してくれちゃう「インパクト・ファクター」なんていう便利な代物だったりするわけだ。インパクト・ファクターがドン底なだけだと、ただのダメな研究で、それに加えて電波臭がするのが「と」って呼ばれることになるのかな。
えらく長くなったのでそろそろまとめると、なにが真理で、なにが嘘なのかは形式的・論理的に決められるような類のものではなくって、それどころか究極的には真理というのは決してヒトの手には届かないモノであって、学者という人種はそれを重々承知した上で、できるところまで真理に近づいてやろうという難儀な努力をしている人種なのだ。その認識を共有している人間同士では威勢のいい論争もするし、安易に「これが真理だ!」と放言する似非学者のことだって非公式な場ではボロクソに言ってるんだが、公式の場で意見を求められちゃうと、
こちらの方が:
物理学者は学会という権威を振りかざして雑魚を踏み潰すような、 ガリレイ裁判とアナロジーが取れそうな行為を極端に嫌う。 非科学的なものを批判するのに、 科学的な精神態度をとっているのである。 物理学者は冷静な議論と説得を好み、その態度を皆が共有することを冀っている。
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「土俵に上げない」戦略はとってはいない。 でもとても地味だ。 そして彼らの物言いには、 誠実な学者の特質である 「説明を精確にしようとして歯切れがとても悪い」ケースが多いとも思う。
と書いているように、なんだか妙に良心的な態度になってしまうのだ(「と」に対して良心的なのではなく、学問というものに対して)。やってる側が明確に詐欺としてやっていれば、また違うのかもしれないが、本人はベストを尽くしているつもりのナチュラルな「と」は非常に扱いに困る。
そんな人々がオズオズと似非科学にマジメに反論を試みた例としては、たとえば
血液型性格判断の例、
その2がある。学者が似非科学にマジメに反論するとどうしてもこういう感じになってしまうのだ。
こういったことをコツコツやっているヒトは偉いなーと思うのだけれど、研究者が「と」をマジメに個別撃破するよりも、科学研究とはどういうものなのか?学説ってどういうもの?学者って一体なにやってんの?という一般論を理解してもらう、学校教育かなんかの一環として、というアプローチの方が効果的な気がする。